そばに眠る、届かない花

9. 踏み出す勇気を君がくれる 2

※左之視点


「ようやく、お出まし?左之兄。」
「……薫。」
いくらいないと聞いていても千鶴たちの家に足を踏み入れる気にはなれず、自分の家のドアを開けると、パチリと明かりが灯って、仁王立ちの薫が待っていた。勝手知ったる他人の家、合鍵を持つ薫や千鶴がこの家に入るのは簡単だ。その可能性にまったく気付かずにいた俺は、その声にビクリと震えて、だがそれを押し隠すように目の前の薫を見据えた。そんな俺に、大げさなほど大きく溜息をつくと、薫が口を開いた。
「……千鶴が泣いてる。いったい今度は何から逃げてるわけ?」
「千鶴が?泣いてるって……、何かあったのか?」
「はあ?何とぼけてんのさ、左之兄。左之兄の所為に決まってるじゃん。」
苦々しい表情を顔中に広げて薫は、俺を睨みつけるようにしながら告げる。その意味がわからなくて、だけど「千鶴が泣いている」という言葉に反応して、噛みつくように声を荒げる。すると薫は心底呆れたようにして言った。……俺の所為?なんで千鶴が俺の事で泣くって言うんだ?
「まあ、いいや、まずこれだけ聞かせて。『いったい今度は何から逃げてるわけ?』」
「何って……逃げてなんてないし、お前には関係ない。仕事だ、仕事!」
「……それ、さ。嘘だよね。ちゃんと土方さんや永倉さんに確認済み。自分以外の仕事かき集めてまで狂ったように仕事してるって。」
「……お前には、関係ない。」
図星を突かれまくって、唸るような声しか出ない。本当に薫はどこまで気付いてるんだ。もういっそハッキリ言って欲しいと心のどこかで思いながら、それでも、意地だけで薫の追及に反論を続けた。仮にも営業職を勤めている社会人が高校生に言い負かされて手の内をさらしていられるか。だが、相手が薫では、部が悪い。俺の動揺なんて薫には手に取るように分かるらしく、手を緩めることなく容赦ない追及が続く。
「ない訳ないよね?千鶴の事じゃないの?それなら俺にも関係あるにきまってるし。」
「………関係ない!」
「関係ないわけないじゃん。今まで三人でいるのが当たり前だったのに、急に帰ってこなくなって、千鶴が気にしないわけないだろ?……ただでさえ左之兄は前科者なのに。」
「……お前に何が分かる?!」
薫の言葉にカッとなる。思わず言い返して、はっとする。これじゃ認めたも同然だ。そんな俺に薫がふんと鼻を鳴らし、苛立たしげに吐き出した。
「分かんないね。分かりたくもない。左之兄の考えてることなんて。……もうさぁ、高校だって卒業するんだよ。俺たち。もう逃げる必要ないと思うんだけど。」
はあ、とわざとらしい大きな溜息を吐きながら薫が吐き捨てるように言う。その言葉の意味を量りかねて薫を睨みつける俺。薫がその俺の視線を鼻で笑って吹き飛ばす。その生意気な態度に苛立ちを覚える。怒鳴りつけたくなる気持ちをぐっと押しとどめてぐるると喉を鳴らすように低い声で薫に威嚇するように問いかける。
「何が言いたい?」
「本当にさ、千鶴、関係ないの?」
「………ない。ある訳ないだろうが。」
何時にない薫の強い視線が痛い。どんなに否定しようとも確かに俺が逃げているのは千鶴からだ。嘘の付けない自分が憎らしい。俺の心を覗き込むような薫の視線から逃げるように逸らし答えた言葉に力なんてあるはずもない。そんな俺に、薫の気配が殺気を帯びる。ちりちりと肌が痛むほどの殺気にぞくりと背筋が凍る。
「また、怖くなったの?千鶴がどんどん大人になって綺麗になって、自分以外を見るようになるかもなんて、考えた?」
薫の妙に落ち着いた声が淡々と俺の心を見透かしたような言葉を並べていく。やっぱり薫は知っていたのか、俺の千鶴への劣情を。だが、『また』とはどういうことだ?
「……っおま、ど……して。またって……どういう意味だ?。」
「知らないとでも思ってた?分かるに決まってる。いつだって3人で一緒に居たんだから。……前もそうだったんでしょ?まあ、悩んでも仕方ないと思うよ、あの頃は。まだ中学生だったからね、俺たち。」
「うっせぇ。……あの時はどうしようもなかったんだ。千鶴を、まだ中学生の千鶴を女としてみてるなんて異常だろ。だから傍に居られないと思ったんだ。……お前は許せんのかよ。お前の大事な千鶴が大学生にそんな目で見られてよ。」
「……左之兄なら、いいよ。」
もう、隠しても無駄なのだろうと悟った俺が漏らす感情的な言葉に薫は嫌悪感を示すこともなく淡々した表情のままだった。そして、ぽつりと零れた言葉にぎょっとする。いま、薫は何て言った?
「は?……お前、いまなんてった?」
「いいって言ったんだ。左之兄ならいいんだよ!」
「なっ……お前、言ってる意味わかってんのか?俺と千鶴とどれだけ年が離れてると思ってんだ。」
「8歳?だっけ。別に問題ないじゃん。」
呆れたように薫がため息をつきながら、答える。俺の気にしていることをまるっきり問題のない些細なことだとばかりに切って捨てていく。その俺には理解できない薫のきっぱりとした自信にだんだんと俺はイライラとしてしまう。
「……ダメなんだよ。俺なんかじゃ。」
「はぁ?何言ってんのさ……だって千鶴は……。」
「ダメなんだ!千鶴はまだ高校生だろう?これからいろいろな世界が千鶴を待っているのに俺なんかがあいつを縛っていいわけないんだ!」
何故薫がそんな当たり前のことを理解してくれないのかがわからない。あんな恐ろしい暗い感情が俺の中にあるのに。このまま千鶴のそばに居たら、きっといつか千鶴の未来をつぶしてしまう。何故薫はそのことには気づいてくれないのだろう。そんな苛立ちをそのまま言葉に乗せて薫に怒鳴りつける。
「俺は千鶴のそばに居ちゃいけねぇんだよ。」
「左之兄……。」
「俺はもう、千鶴のそばには居られない。わかってくれ、薫。」
誰にも言えずにいた俺の劣情を薫にぶつけて。そうして俺は静かに薫に宣言する。そう口に出してみると、すとんと自分の言葉が胸に落ちてきた。ああ、そうだな。俺はもう千鶴のそばには居られない。きっと少し前のようなあの優しい日々が俺に戻ってくるはずはないんだ。
そう、思った時だった。がたり、と何かが落ちる音がする。
はっとして俺と薫が音のした方向――玄関を見ると。

そこには千鶴が立っていた。
真っ青な顔で、ガタガタと震えている。

一瞬時が止まって。俺と薫が息をのんだ次の瞬間、千鶴がぼろぼろと涙をこぼしながら、俺たちに背を向けて走り去る。千鶴、お前にそんな顔をさせたいわけじゃないのに。お前にはいつだって笑っていてほしいのに。

「左之兄!行って!」
「何言ってんだ。俺はもう……。」
「左之兄じゃなきゃ、駄目なんだよ。だって……だって!千鶴は左之兄のことが好きなんだから!」

今度こそ、本当に時が止まる。……いま、かおるはなんていったんだ?

「千鶴のやつ、きっと左之兄の最後の言葉だけ聞いたんだ。だから早く!」
「……お前、何言ってんだ?」
「だから!千鶴だってずっとずっと左之兄だけを見てたんだ。みんな知ってる。知らないのなんて、千鶴と左之兄だけだよ!だから!だから……。お願い左之兄。」
千鶴が、俺を?嘘だろう?そんなわけが……。だけど。
あの薫がぼろぼろと涙を流す。本当に小さなころは、二人はどちらかが悲しいと二人そろって泣いていた。いつからか薫が泣くことは無くなったけれど。きっと薫は我慢していただけなんだ。伝わってくる千鶴の感情を受け止めながら、でも自分も泣いてしまったら千鶴がもっと悲しくなるってわかっていたから。その薫が泣いている。
本当なのか?だからお前は俺ならいいって言うのか?……そうだな、それが本当なら、俺たち3人はこれからもずっとあの優しい時間を過ごしていける。
ああ、俺はなんてバカだったんだろう。

「薫……。」
泣くなよ、薫。お前は俺の大事な弟なんだ。お前の願いだったら何でも聞いてやるから。
「千鶴に言って。左之兄の本当の気持ち。もう、千鶴を泣かせないで。」
「ああ、わかったから。もう泣くな。」
ぼろぼろと幼子のように涙を零す薫の髪をぐしゃぐしゃと掻き回す。その言葉に薫が猛然と腕で涙をごしごしと拭き取った。そして、ぐずぐずと鼻を鳴らしながら胸を張る。
「泣いてなんかない。」
「ああ、そうだな。」
もう一度、薫の髪をぐしゃりと撫でつける。
「俺はいいから。千鶴をお願い。」
「ああ、わかってる。」
そういって、俺は薫に背を向ける。千鶴は何処に行ってしまっただろうか?必死に今までの記憶をたどり、千鶴を追うためのルートを探しながら、玄関を飛び出した。

「……左之兄も千鶴も本当に鈍くて……馬鹿みたいだ。」
走り出す俺の後ろを追うように、小さく呟く薫の泣き濡れた声が聞こえた。

ああ、本当に大馬鹿だよ。俺は。

そう声に出さず答えると、逃げ出していった千鶴の見えない背中を追って夜の街を走り出した。



end.


お題「恋人になるまでの10ステップ」より
07:踏み出す勇気を君がくれる

千鶴ちゃんに左之さんを「お兄ちゃん」って呼ばせたくて始めたお話ですが。

薫の最後の一言が結構テーマかもしれないと思っています。
止まっていた間、ずっとこの台詞までの道筋が埋まらなくて。やっと書けた。そんな感じです。


2013/07/21


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