雪の果





※相互リンクしていただいている「朱夏」のみゃう様より頂きました。






朝、目覚めて。まず。
昨夜、原田との電話中に聞こえていた雨音がしないことに気付く。
慌てて起き上がり。僅かに開けたカーテンの隙間から見えたのは、白。
外は一面、雪に覆われている。

「こんなに寒ければ、明日の朝は雪かもしれませんね」
二月も半ばを過ぎ。
そろそろ春の気配も感じられる頃だが、ここ数日は随分と冷え込んでいる。
夜半から降り出した雨も、もしかしたら雪に変わるかもしれないと思った。
「冗談でも聞きたくねぇな。もう雪はまっぴらだ。雨だ。雨に決まってる」
先月、天気予報が大きく外れて、予想外の雪が降った朝。
教職員は混乱する交通情報の確認や、相次いで連絡が入る生徒達の転倒事故の対応に振り回された。
ここでは僅か十数センチの雪で、全ての機能が麻痺してしまう。
「雪なんか見たくもねぇ…」
「でも…もう一度くらい、見たい…です」
珍しく、大人げない反論をしたくなる原田の気持ちはよく判るけれど。
それでも千鶴は素直な気持ちを呟いた。

「じゃぁ。ひとつ…賭けねぇか」
明日の天気の話だったはずが、あらぬ方向へ変わった。
「この雨が雪になればお前の勝ち。雨のままなら俺が勝ち、な」
「それっていけないことでは…」
慌てる千鶴の言葉は聞かず、原田は独りで勝手に話を決めてしまったのだが。
結果は雪。そして千鶴の勝ちだ。
原田はきっと今頃、諦め切れずにぶつぶつ言いながらも、慌ただしく出勤の準備を整えているだろう。
その光景を思いながら。千鶴は互いに無事に学校で会える事を祈っていた。


『負けたら一つ、相手の願いを何でも聞く』それが賭けの条件だった。
『願い』と言われても、今の千鶴には何も欲しい物が浮ばない。
それ以上に。原田から特別『して貰いたい事』も思い付けずにいる。
付き合いを始めてから、僅か数ヶ月。原田に憧れ、焦がれていた片想いの時間の方が遥かに長いのだ。
願いが叶った今は、ただ一緒にいられるだけで充分に嬉しい。
いっそ初めから賭けなんて無かった事にしてもらえたら…。
それが一番いい方法に思えたが「何でもいいからな」と楽し気に笑っていた原田を思うと、言い出せそうにない。
だったら『して貰いたい事』ではなく。自分が『してみたい事』でもいいのだと気付いたのは、それから散々頭を悩ませた後だった。
日頃、いつかと思いながら失敗が恐くて、未だ実行出来ない事がある。賭けの褒美と軽い気持ちで割り切れば、上手くいくかも知れない…。
そう考えると、原田の部屋で過ごすことになっている週末が待ち遠しい。


『願い事』と言ったところでせいぜい、子供が親に要求する程度の事しか原田は考えていなかった。
年の差のある恋人。対等に接しても、互いの距離を縮めるその主導権は自分にあると思っていたのに。それをあっさりと千鶴から『名前を呼ばせて下さい』と強請られるとは…。
油断した。
思っている以上に自分は、彼女に目が眩んでいるのだろうと苦笑する。
千鶴にはそんな原田の気持ちを察する余裕は無い。
自室で練習していた時は、照れて恥ずかしかったけれどちゃんと呼べた。なのに本人を前にした途端、まともに呼ぶ事が出来ずに悪戦苦闘している。
「…ぁの」「さ…ぉす…」
たった四文字。なのに呼べない。千鶴の声は、原田の名前ではなく、細かに切れた音を繋ぐだけだ。
出来なければ笑い話になるだけと思っていたのに。嘘だ。とても笑えない。
それでも何度か繰り返しているうちに、ようやく。
「さぁ、の…せんせぃ?」
一つの言葉になったものの、普段使い慣れた呼び名に紛らわせて、誤摩化しただけでは意味はなく。
すでに何もかもが精一杯で、切羽詰まっている。

カウチの上。千鶴は両足の膝を抱え込み、俯いて丸まった姿勢でしょげ返っていた。
さらりと名前を呼べたら、大人で。特別に親密な関係に近づける、かな…。
名前を呼ばせてもらうと決めた時から、ほんのついさっきまで。思い描いていたあれこれは憧れの範疇を超える事無く、全てがまだまだ現実からは遠いと気付いた。楽しい夢から引き戻されたようで寂しい。
「まぁ好きな様に呼べよ。お前が呼ぶなら、どう呼んだってちゃんと応えてやるから」
千鶴がようやく少しだけ顔を上げると、気遣うように覗き込む原田の顔が目前にあった。
「まだ先生で…いいです…」
「そりゃ残念だな。お前から名前を呼ばれるのも悪くなかったんだが…あれはもう無しか?」
ん?。問い掛ける原田の目が、逸らそうとする千鶴の視線を絡めとって、細く笑う。
いつもより更に目尻が下がった甘い含み笑いに見蕩れて。千鶴は一瞬で熱くなる。
「でも…呼べなかっ…」
「今は、だろ?。待っててやるよ。だから、いつか…な」
ぴくりと千鶴の肩が、跳ねたのは。唇に原田の指先が微かに触れたからだ。
節くれ立った長い指が、膨よかな千鶴の唇の形を幾度か辿り、柔らかく押し、戻す。
ー ここで、ちゃんと呼んでくれ。
掠れた声に囁かれて、促されて。千鶴は小さく頷いた。



「朱夏」みゃう様から頂きました。
リクエストを……とのお言葉を頂きまして、その頃山ほど外に積もっていた「雪で左之さん」と非常に安直なリクエストをしてしまったのですが、ちょー可愛い千鶴ちゃんを頂いてしまいました。
そんな経緯のお話を転載させていただく今日も、季節外れの大雪です。縁があるなぁ。
今、絶賛千鶴ちゃん萌月間な私にはとっても嬉しいお話です。
そんな可愛い千鶴ちゃんに軽く振り回され気味な左之さんも、ツボです。

みゃう様、ありがとうございました。

2012/03/20


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