愛妻の日

「なあ、千鶴。なんかして欲しい事とか、欲しい物とか、やりたい事とかないか?」
「は?藪から棒になんですか?左之助さん。」
原田が仕事から帰ってきたので、夕食を温め直していた千鶴が、急に問われた事に目を白黒させて首をかしげる。
高校を卒業して、晴れて原田と正式にお付き合いを始めて、この春には結婚することになった。まだ早いのではないかというものもいた。確かに千鶴はまだ大学生だ。だけれど原田と千鶴の決意に、最初苦い顔をしていた父も頷かざるを得なかった。年頃の娘を家に一人にすることが多いことを気にしていた千鶴の父は、千鶴の意志が固いならいっそ嫁がせても……と考えたらしい。
結婚の準備の傍ら探していた新居の都合で、少し早いが年末から一緒に暮らしている。大学の勉強と家事、両立は大変だけど、数年一人暮らしを続けてきた原田も家事には協力的で、もともと実家でも家事の全てを行っていたからか、今ではすっかり手慣れたものだ。
そんな新しい日々のある日、先に帰っていた千鶴が夕食を調えて勉強をしている所に原田が帰ってきたのだが、なにか妙にそわそわとしている。仕事着からラフな部屋着に着替えて食卓にやってきた原田が、開口一番に切り出したのが冒頭の一言。
特に記念日が近い訳ではない。あえて言うなら、ヴァレンタインが近い位だ。それなら「原田が千鶴に」よりは「千鶴が原田に」が正しいだろう。それでは一体、急になんだというのだろうか。
「いやな、今日は「愛妻の日」っていうんだと。新八の競馬のラジオの合間に流れててな。これはもう何かしないわけにはいかないだろうって思ったんだが、どうせなら千鶴の希望をかなえてやりてえなと思ってな。」
「あいさい……愛妻!?わわ、わたし、のことです、か?」
「千鶴以外にいないだろう?なぁ、奥さん。」
一緒に暮らしはじめているが、原田の妻になるのだという実感はまだすこし千鶴には遠くて、そう言われることに慣れていなくて、どうしてもまだ、恥ずかしいとか照れが先に出てしまう。飛び上がる様に驚く千鶴をからかう様に軽くウインクをしてくる原田に千鶴は林檎の様に真っ赤に染まった頬をさらに赤く染めて俯いてしまう。
「なあ千鶴、で、なんかないか?」
「急に言われても……あっ!」
「お、なんかあったか?なんだよ、言ってみろって。」
頬を染めながら、考え込んだ千鶴が何かを思いついたように声を上げるが、そのまま黙り込んでしまう。その様子に原田は優しい口調で促してくる。見守る様な視線に気付いた千鶴は、思いついた事を言ってもいいのか迷う様に視線をさまよわせていたが、まだ言う気にはなれないようで誤魔化す様に夕食の準備を再開させた。
「後で言います。……とりあえずお夕飯です。」
「あ、おい。誤魔化すなって。ちーづーるー。」
ぱたぱたと台所に逃げ込んだ千鶴を原田は追いかけたが、いったん決めると頑固な千鶴が折れる事は無く、大きな身体でまるで猫の様に纏わりつく原田を、笑顔で一蹴するとにこやかに台所から原田を追いだしたのだった。


***



『左之助さんの髪の毛、洗いたいです。あと、お背中とか流してもいいですか?』
夕食の後、ようやく千鶴の要望を聞きだした原田は、唖然とした。……千鶴の願いを叶えたいと言った。確かに言ったが、それがどうしてそういう希望になるのだろう?
何か欲しいとか、何処かに行きたいとか、そういった願いを予想していた原田には、釈然としない願いだったが、千鶴の希望を、といった手前、あまり強く反対は出来ずに受け入れてしまった。
でも、考えてみれば千鶴の方から風呂に一緒に入りたいなど、天地がひっくりかえってもない事だと思っていた原田にとっては、酷く棚ぼたな希望だ。先に入っていてくれという千鶴の言葉にいそいそと風呂場で待っていた原田に訪れたのは、切ない現実。

「お待たせしました。」
「おう!千鶴……ってなんでTシャツ着てんだよ!!」
「え?」
うきうきと振り返った原田の目に飛び込んできたのは、愛妻の裸体ではなく……原田のTシャツをワンピースの様にして着た千鶴の姿。原田がどうして憤っているのか、千鶴にはまったく見当がつかないらしく、不思議そうに原田を見返して、裸の原田を見止めて頬を染めて少し視線をそらした。
「一緒に風呂入るんじゃねえのか?」
「え?…えぇっ!そんなこといってません。ただ髪の毛、洗って差し上げたいんです。」
「それって一緒に入るってことじゃぁ……?」
「違います!……だって……左之助さん、一緒に入ると………。」
原田の言葉に、千鶴は顔を真っ赤に染めて必死に否定する。先日、原田に丸め込まれて一緒に入った時の事を思い出したのかもしれない。ごにょごにょと口籠っているが、原田と一緒に入るといろいろ大変だといいたいらしい。
結局、千鶴の希望、という大義名分が邪魔をしてしまい、原田は涙をのんで千鶴のTシャツを脱がす事を諦めて大人しく髪を千鶴にゆだねた。
千鶴は本当に機嫌よく楽しげに原田の髪を洗いはじめた。その嬉しげな様子にかなり不満げだった原田も頬を緩めた。濡れてもいい様に本当にTシャツしか着ていないようで、ちらちら見える腿や濡れてきて透けて見える肌がかなり目に毒ではあったが。
しばらくすると千鶴が髪を洗いたいといった理由を語り始めた。
「本当に小さい頃、父さんと薫とこうしてお風呂に入って髪を洗いっこしたんです。でも、薫が南雲の家に行って、父さんがほとんど帰ってこなくなって、平助君のお家でいろいろお世話になったんですけど、やっぱり余所のお家ですから、洗いっこなんて出来る訳なくて。……他に3人の思い出ってあまりないので、いつか大切な人と暮らしていく時にはあの頃みたいにって……。ちょっと変ですね?」
「いや……、ってそれじゃあなんで俺だけ洗ってもらってるんだ?」
「左之助さん……お風呂だけ、で済みますか?」
「うっ……済まねえかも、なぁ。」
現に、今だって隙を狙って……なんて考えている原田は、じとりとした千鶴の言葉に反論できなかった。そんなやり取りをしながら楽しげに自分の髪を洗ってくれる千鶴を窺いながら、原田は少し安堵していた。母親は亡く、父親も仕事に忙殺されて、ずっと甘える事を知らずにきた千鶴が、自分にはこうして少しずつだけれど甘えたり怒ったりするようになってくれている事が、嬉しいと思う。それでこそ、夫婦であって家族というものだと思うから。
「千鶴、記念日とかじゃなくてもさ、もっと俺に甘えていいんだぞ。怒ったってわがまま言ったっていい。もっと俺の知らない千鶴を見せてくれ。」
「左之助さんは、もう少し……我慢していただけると助かるんですけど。」
「あーーー、無理だな。俺だって千鶴に甘えたいし?」
「左之助さん!!」
もう!と怒った声をしているが、原田がちらりと見上げた千鶴の顔はどこか嬉しそうな笑みを隠す様な怒り顔だった。



end.

1/31に仕事中の移動時にきいてたラジオでいってた「愛妻の日」。
1月の1をI(アイ)と見立てて、「I(アイ)3(サ)1(イ)」らしいです。
ちょっと妄想が広がったので書くぞ!と思い立ったものの、流石に書きあがらなくて。
やっと出来上がりました。
なんだかよくわからない事になってますが、私がちょっと髪を洗ってあげるのが好きだったので。
これが、美容師さんとか看護師さんとか介護士さんとか職業になったら大変ですけどね。
大切な人が無防備な姿を晒してくれるんだなって随分昔に思った事がありました。
若干原田さんがかわいそうな事になってますけど(笑)。
左之さん、たまには我慢しないと(笑)。

2012/02/05


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